鮫人の掟 −橋本五郎

 …舳の前方には、とおく淡路の頭が童話の本にでもありそうにうっすらと霞んでいた。左にはやや近く岬の灯台が白く輝き、右には前ノ島の緑が声の届きそうな距《へだ》たりにあった。船の位置は、町の波止場からは約二千米の沖合になっていた。
 時間は、午前の十一時にはまだいくらかの間があった。海へは権蔵と二郎の二人が這入っていて、都合で遅れて来た為吉は、恰度甲板で支度を終って、もう面をつけるだけになっていた。
 最初、船の右側から這入っている権蔵のろっぷに引揚げの信号が来たのだが、これは普通の信号で、人夫は鼻唄交りに作業を始めたような有様だった。左側から潜水している二郎のろっぷが、誰もが作業を中止する程の烈しさで危急信号をつたえて来たのはそれから四五分して、つまり権蔵の方の引揚げの、第三回目の休憩の時に当っていた。
 旧式な潜水作業では大抵の場合、潜水夫が俗に潜水病といわれるものにかかるのをおそれて引湯げに際してはその程度によって二、三回、あるいは三、四回の引湯げ休憩ということをする。つまり何尋か引揚げては一二分休憩し、また何尋か引揚げては休憩して、潜水夫の吸気に海底の水圧から海面へ出るための調和を与えるのである。その権蔵の、最後の休憩の時に二郎から危急信号が来たのである。従って二郎の方の人夫達が、それ! というので懸命にその引揚げに従事しはじめた時分には、権蔵の方はもう甲板に引揚げられて面さへも脱がされていた。
 面を脱がされた権蔵は、それまで堪えられるだけ堪えていたといった風に、新しい空気に接するなり、
「水、水、水」
 と叫んで、がくんと甲板に腰を折った。何時もは赧い鬼のような顔が、ひどく蒼ざめて眼には鋭い恐怖の色をさえ見せていたので、
「ど、どうしたんだ、権さん」
 と人夫のひとりが訊いたけれど、彼は大きく呼吸するはかりで直ぐには答えが出来ぬらしかった。そして漸くに水を得て気を落付けると、真先に「陸へ帰して貰いたい」といって署員の身体にすがるようにした。
「幽霊に追いかけられて、すんでに命を奪られるところでした」
 権蔵は狂人のように眼を見開いてそういった。その眼は鰯のように真赤になっていた。署員が、
「馬鹿な!」
 といって、ひとつ背中を喰わしたけれど、彼の脅えは直らなかった。後から追いかけられることを恐れでもするようにちら、ちらと海面へ注ぐその眼の色は刻々に変って来、始終膝のあたりをがくがくさせて、はては甲板を沖に駈け陸に走り、最後には訳のわからぬ怒号さえするようになって来た。
 署員は一度振り返って波止場の方を見やったが、まだ昼の物を乗せて来る筈の署のボートの影も見えなかったので、
「ポートが来たら帰してやる。それまでは船室ででも静かにしておれ」
 そう無理矢理に彼を名ばかりの船室へ押込んで来た。
 その船室へ署員が権蔵を押込んでいった留守に、恰度二郎が甲板へ引揚げられて来たのだったが、危急信号を送ったのも道理、二郎はそこへ引揚げられる前にもう生のない人間になっていた。が、ただぐんなりと土左衛門のように揚って来ただけで、何処にも傷らしいものが見えなかったから、初めは人夫達も何かの急病ではないかと不思議に思ったくらいであった。
「誰もポンプを怠けたのじゃあるまいな?」
 白々と甲板に横たわったゴム服のままの二郎を見た時、署員は直ぐにそう訊いて死体の上に跼みこんだ。十に近い人夫達は、誰も作業を怠けた記憶を持たなかったので、無言で同じように二郎の死体へ群がっていた。
「あ、胸だ、血が、血が−」
 面を冠らないままでいた為吉が発見して指したその二郎のゴム服の胸に、方七八分の破れが一ヶ所出来ていて、その内部に正しく鮮血のたまりを見ることが出来たのである。皆が手をめちゃくちゃにさし交して死体の服を脱がせたが、
「こりゃあ…」
 といったきり、誰も暫くは言葉を口にすることが出来なかった。左の胸の、恰度心臓のあたりに傷があって、そこからまだどくどくと血が吹き出していた。その血で、傷の形は見えなかった。
「鱶にでもやられたのじゃあるまいか?」
 暫く経ってから人夫の中のひとりがいった。
「さあな?」と署員も首を傾けたが、「何にしても直ぐに水上署へ知らさねばならん。この船をやるのもなんだし、ポートはまだ来ないかなあ」
「鱶って奴は変な喰い付き方をするからな」
「大変なことになったもんだ」
 人夫達が二郎を悼んでいるうちにやっと波止場の突端から署のポートが姿を見せた。
「事故あり、至急署長並びに係医師の出張を乞う」
 署員はポートを見ると直ぐさま艫の方に紅白の手旗信号を持ち出して、そう急を訴えた。

「…だが僕が行って見ると鱶じゃないんだ。どう見たって槍か銛か、そんなもので一卜突に殺ったらしい。署長も首を傾げていたがね」
 その日の夜、食卓を前にした医師の竹田がひどく打ちとけた態度で客らしい相手に語っていた。
 客は竹田の向いに端然と正座して、折々簡単な相槌をうって聞いている。細面の色白の、絵草紙からでも脱け出たような柔和な相貌であるけれど、その肩幅は馬鹿にひろく、丹前の抽口からのぞいた手首のあたりは鉄のようにたくましい。そして声のひぴきには錬れた軍人のようなところがあった。
「海の底でのことだから、あるいはどんな魚類がどんな武器をその男の胸に突込んだかも解らない、しかし僕には傷口で見るとどうしたって人為的なものとしか考えられないんだ、だから飽くまで殺人だと頑張った」老けて見える割合には若いらしく、それに酒の気もあるかして、この町の医師は甚だ雄弁に話を進めていた。「署長も僕の説を幾分は首肯したに違いないんだが、何にしても田舎のことだからね、こんな変な事件は事理を究めるよりも早く始末をつけたいと見えて、署長殿、内々は鱶にして了いたい意向らしい。とにかく二郎が殺られた時は、底にはまあ誰もいなかった理屈だから、無理もないさ、犯人のいない殺人なんてないからね。自殺ということも僕も一度は考えて見た。だが自殺なら何も危急信号などする必要はなかろうじゃないか。どんな経緯があったかは想像さえつかないが殺人は殺人に違いないと僕は思うがね」
「権蔵とかいう先に揚がった潜水夫の幽霊の話、あれはいったいどうなったのだ?」
 相手の客が不意に訊いた。
「ああその幽霊じゃないかとの説もあったよ」医師は益々雄弁になって、「これは刑事のひとりが冗談にいったのだが、それで一応は権蔵を訊問して見ることになって、僕も立会ったが変ちくりんな話なんだ。作業場の深さは二十尋あまりとのことだが、それくらいなら底でも電燈なしに四五間四方は充分肉眼でも見分けられるそうだね。権蔵は船から西、二郎は東という風に捜索の区域がきめてあったのだが、一度、権蔵は二郎の姿をその西で四五間向うに見たと思うといっていた。ぼうと藻合を分けて行ったというのだが、自分の見違いだったかも知れぬともいっている。とにかく二郎の姿が見えたから、権蔵はひと休みするつもりでその方へ歩いたんだそうだ。すると、恰度二郎の姿が見えなくなった藻の蔭のところに、恐ろしい化物がじっと権蔵の方を睨んでいたというんだよ。海底の死体という奴は、流されぬ限り、大抵砂や泥を冠って横たわっているものだそうだが、そいつは立ちはだかって、おまけに銛まで構えていた、あばら骨をむき出して、眼をむいて、皮膚が失くなっている顔のくせに、頭にはまだ長い髪がもつれついてひどく凄かったというんだがね。でそれを見るなり先生、夢中でろっぷを引いて引揚げて貰ったんだそうだ。二郎が殺られたのなら、その幽霊の銛かも知れませんといっていたが、訊いて見ると、その銛の様子がどうも二郎の傷口に合うような気がしてね、だから僕はその幽霊というのが、ひょっとしたら何か、不思議な犯人じやないかとも考えるんだ」
「二郎の死後の、君の推定時間はおよそどれくらいだね?」
「経過した時間といっては殆どないね。危急信号だったから人夫も我武者羅に引揚げたらしいし、信号した時には二郎もまだ生きていた筈だから、きっと引揚げられると同時くらいに殺られたのだろう。二分や三分のことでは如何な科学も明確な説明はなし得ないからね」
「権蔵と為吉はそれでどうなっている?」
「別に何もないさ。為吉は這入ってはいなかったし、権蔵も二郎が殺られた時分にはもう海面近く引揚げられていたのだから」
「警察ではどうするつもりでいるのかね、やはり鱶にして了うか、それとも他に何か−」
「明日、もう一度為吉を入れて見るといっている。つまりその幽霊の正体を見付けようという訳だ。僕が頑張ったもんだから、署長も仕方なしさ。為吉だって嫌だといったのだが、そこはおかみの御威光で何でもかでもと承知させて了った。明日は僕も行って見るつもりだが、何なら君も行って見ては? 君には持って来いの事件じゃないか、どう思うね、いったい?」
 客は医師の言葉にその面に似ぬ豪快な笑いをした。それからやや真面目になって、
「面白い事件は事件だね。連れて貰えるなら行って見てもいい」そして気をかえたように、「君が出かける時、鞄を持っていた看護婦があるね、若い、あれはやはりこの町の者かね?」
「ああ美代ならこの町も−そうだ、美代と二郎とは遠縁か何かに当る筈だった」
 医師はそういって酔の醒めたような表情をした。いや、客のその唐突な質問の意味が、どうやらやはり事件に関連したものだったらしいことを悟って、今更のように驚いたのである。
「堤、君はもう犯人を知って了ったのか?」
 医師が膝を直して真剣に訊いたけれど、堤と呼ばれたその相手は徽笑するだけでそれには直接に答えなかった。
 −鳶が一羽、碧い空の上を飛んでいた。その真下の波の間に、赤いブイが浮いていた。ブイを船側に付けるようにして水上署の作業船がじっとしていた。作業船の甲板では為吉が人夫達に見守られて潜水面をつけようとしていた。
 昨日に変らない快晴である。署長は一通りの注意を為吉に与えていた。竹田も堤も、同じ甲板に立って為吉の様子に目をつけていた。
「若しものことがあったら署長さん、頼みますよ」
 そういって為吉は、ちょっと淋しそうな笑いを見せて面をつけた。
「大丈夫だ」
 強い、その署長の言葉を聞いたか聞かなかったか、為吉は静かに船べりを下りて行った。コトンコトンともうポンプは押されていた。ずぶずぷと為吉の頭は音をたてて、青い海面の下にゆれて、うすれて沈んで行った。送気のゴム管と命綱がかわいた船べりをコトコトすべって伸ばされて行く。
「油断するなよ、こら、しっかりろっぷを握っておらんか」
 年輩の人夫が若いのに注意した。
「二十尋です、もう底に着いています」
 と署員が堤に説明した。
 真青に澄んだ海面には何の変化も起らない。平和な小波がばちゃばちゃと船桁を洗い、遠くから発動機船の機関のひぴきが時々トロトロと波上を伝わって来るばかりである。
 為吉は今どのあたりを歩いているであろうか? 底知れぬ海の青さを眺める時、誰の胸にもフト権蔵のいった死霊のことが事実のようにも思われて来るのであった。
「難所でしてね、記録で見るとここではいろいろの事故があったようです。一昨日にしたって、ほんの二時間か三時間、荒れといえば荒れがあったんですが、それで一艘沈みましたからね。いや船はその時直ぐに波止場へ引くことが出来ました。只四人その船の者が渫われたものですから、それで咋朝から作業にかかっていた訳なんですが、それがまだ一名も見付からないうちにこんなことになって−」
 堤に対する署長の説明はそこで切れた。ろっぷに掛っていた人夫達が、必死の表情になってそれを手繰りはじめたのである。
「危急信号です」
 と署員が一言いって海面に眼を注いだ。
「休みますか、どうしますか?」
 ポンプについている年輩の人夫が急がしく訊いた。
「最初もその次もいいから三回目のところで二分ばかり休ませろ。三回目まで揚がってくれば大抵大丈夫だ」
 署員の言葉で十四五尋引揚げた時二分休んだ。ろっぷにはそれでも僅かに手答えがあった。
「大丈夫、大丈夫」
 年輩の人夫の声に、他の人夫達も吻としたように口元をゆるめ、最後の引揚げにカを協《あ》わせた。コトンコトンとポンプも音を弾ませていた。
 そして船にいるすべての者の眼が海面の一点に集中された時、ゆらゆらと頭部を見せて為吉があがって来た。
「大丈夫、大丈夫」
 ともう一度誰かがいった。為吉がたしかに手や首を動かしていたからである。水際で更にひと休みして、いよいよ彼は甲板に引揚げられたが、人夫のひとりが面を脱がせると、
「水を…」
 と手真似をする様子が権蔵の時と同じといっていいほどよく似ていた。その声は嗄れ、顔も、まるで海草のように蒼ざめている!
「元気を出せ、何んだ男のくせに!」
 慣れた署員はドンとひとつ肩のあたりを喰わした。署長も人夫達も、皆なまるくなって為吉を取りかこんだ。
「幽霊がいた−」と漸くのことで潜水夫は元気を出して、
「恰度その向うのあたりだよ、さんばら髪のロの大きな奴が銛をこう持って立っていやがった。署長さん、もう帰らしておくんなさい、あの化物がぐっと睨んだ時にゃ、もう俺ら駄目だと思った」
 そういって首を振る為吉の様子を、堤は人々の背後からだまって注意して見ているのであった。
「出鱈目をいうときかないぞ、為!」
 署員が大喝したけれど、為吉の言葉に些かの嘘もないらしく、彼はむっとしたように首を上げて、
「嘘と思われるなら旦那が潜って見られるといい。もう金輪際この沖の仕事は俺ら御免だ」
「服さえ着ければ素人にでもはいれますか?」
 突然堤が質問した。
「誰にだって這入れやすとも」と興奮の続きのように直ぐ為吉が引取っていった。
「さ、俺らのでよけりゃ、これを着て化物に会って来ておくんなさい」
 署長は堤の前を笑って、一本気なこの為吉の興奮をたしなめ、それらか尚海底の様子をくわしく話すようにと為吉にいった。為吉は一刻も早く船を帰してくれと駄々をこねて、やがて町へと引揚げる船室で何かと海底の模様を語るのであったが、事件に関係あることでこれぞと思われるようなことは何一つなかった。
「甚だ勝手ですが、先刻仰有っていた難波船の記録を拝見さして頂きたいと思いますが−」
 船が町に帰った時、腰を低くしてそういう堤を、署長は単に都会人の物好きとでも思ったのか、気軽く、
「御希望ならこれから署まで御一緒にいらっしやればお目にかけてもようございます」
 と先にたった。
 竹田医師は、患家の都合があるからといってそのまま一行と別れようとした。
「じゃ僕は水上署までちょっと行って来るからね、若し君が病院へ早く帰るようだったら」堤はそれから急に声を落してもう四五歩先にたっている署長等の方に気をがねながら、「どうかして、あの美代とかいったね、あの看護婦にそれとなくそれだけのことを訊いて見てくれないか、うん、ひとつ本気に調査して見ようと思うんだから」
 竹田の耳に口を寄せて、堤はわずかの間語っていた。竹田はうんうんと首肯いて、この相手には絶対の信親をでも持っているように、
「よし承知した、早く帰って来るといい」
 莞爾として、やがて別れて帰って行った。堤は遅れた署長等の跡を学生のような元気さで追って行くのだった。
「…訊いては見たが大したことはないらしいよ」
 その日の夜、可なり遅くなって帰って来た堤を迎えて、竹田が浜での約束の報告をしていた。
「でも、恋愛関係だけはあったろう?」
 と塊は何時になく二コ二コしていた。
「恋愛関係というまでに進んだ仲じゃないらしいね、しかしあの人と一緒になるつもりだったとは白状した。美代にも驚いたが権蔵の奴にも驚いたね、君が心配してくれたように、権蔵の奴、度々美代を脅迫までしていたことが解って驚いた」
「どんな方法だね、その脅迫は?」
「それが、これは僕の落度なんだが、ほら、看護婦はあちらの病室の方で寝ませることにしているだろう、権蔵の奴はそれを知っていて、毎夜のようにやって来ていたというんだ。そしてナイフなど見せて一緒になれとか何とか追っていたらしいんだが十も齢下の娘を、実にひどい奴だ」
「昨日、いや一昨日の晩もやって来たか知らん?」
「一昨日の晩も来たといった。何時もよりは幾らか遅くなってやって来て、明日の仕事さえ済ませばもう潜水稼業は止める、だから一緒になってくれといったそうだ。潜水夫を止めるというのは、美代が口実にそんな職業の者は嫌だといっていた為らしいがね」
「止める−昨日の仕事を済ませば潜水夫を止めるといったんだね?」
 堤は特別なことのようにその点を訊き返した。そして竹田がうなずくのを見ると、
「じゃその時、権蔵が何か金のことに関して喋舌りはしなかったか、聞かなかったかね、これは大切な点なんだが−」
「いってたよ、権蔵が美代に」と竹田は驚いたらしく堤の面を今更のように見て、「明日の仕事さえ片附けば、相当まとまった金も手に入るから、それで家を持って−当分は遊んででも暮せるような口吻《くちぶり》を洩らしたそうだ」
「まとまった金がねえ−」
「しかし堤、君には何故権蔵が金のことをいったなんて解るんだい、おい?」
「いや、ただ想像に過ぎんのだよ、とかく犯罪には金と女が附きものなんだから」
 堤は笑って、それだけしか竹田の疑問には答えなかった。
「まとまった金というのは、なる程、少々訝しいわい」
 そう考えこむ竹内の言葉に、堤も、
「たしかに給料のことをいったのではないらしいね」と相槌を打ったが、やがて、「まあそれはそれとして、君、いったい権蔵は娘から嫌われているのを知ってたのかね? 二郎という男のあるのは気附かなかったのかね?」
「嫌われていることは知っていたらしい。が二郎のことは、美代は知るまいといっていた。二郎の方へは美代から権蔵に困っていることを話したそうだが、権蔵へはそんな気振りさえ見せなかったといっている。権蔵という奴は随分向う見ずな奴だそうでね」
「じゃ二郎の方から権蔵を殺る動機はあっても、権蔵の方から二郎を殺る理屈はない訳になるね」
「うん、権蔵が二人の間のことをずっと知らないでいたとすればだ」
「だが二郎の方は又、娘といったい何時、何処で話したり会ったりしていたのだろう?」
「いくら訊ねても、美代はそのはっきりしたことをいわないのだが、病室へ来た時もあるとは白状したから、二郎もこっそり来ることは来ていたに違いない。権蔵と出会さなかったのが幸いさ」
「何故出会さなかったといえるのだね?」
「何処って」と竹田は今一度堤を見かえして、「美代がそういっているんだから−それとも君は、二郎と権蔵が出会したとでもいうのかい?」
「出会したと断言は出来ないがね、出会すような時があったかも解らないさ」堤は人なつこく微笑しながら「おかげで大体察しがついた、明日はひとつ潜って見ようと思うんだが、どうだい、附合ってくれるかね?」
「海へ? 君が、君が潜るのかい?」
「健康上よくないかね? 僕は例の幽霊って奴を引つかまえて見世物にしてやろうと思うんだが−」
「堤、ほんとうのことをいってくれ、ほんとうのことを!」
 相手の表情を注意していた竹田は突然湧き上るような喜びの声音でいって膝を浮かした。そして身を乗り出しながら、
「おい、犯人が解っているなら教えてくれ。権蔵か、為吉か、え? 僕の診断に間違いはないのか?」
 フト堤の面上を淋しいものが通り過ぎた。だがそれもほんの瞬間で、
「明日になって見なけりゃ解らないが」といった時にはまた元の朗らかな調子にかえっていた。「君の診断には間違いはないと思うよ、ただ不思議でならないのは、その幽霊という奴さ」
「行く、行く。患者なんてどうだっていい。明日は行って君の助手の役を勤めよう、なあに君の身体なら何十尋潜ったって大丈夫だ」
「署長も皮肉らしくそんなことをいっていた、僕がうまく言葉尻を押えて許可させて了ったもんだからね」そういって、堤は流石に興奮を抑えかねたものか、稀にしか見せない強い性格の片鱗を眉宇の間に浮べながら、「これで、僕もめずらしい調査を誰よりも先にやることになった」

 −竹田は一切の医薬的準備を準え、身には何かの地の厚い服を着込でいた。堤はゴム服に合うよう身軽くして、それでも万一を思ってかジャックナイフの手頃なのを携帯した。
 署長の好意で船は水上署のを借ることが出来た。いや署長までが一名の署員を従えてもうその船に待っていた。人夫は竹田が前夜のうちに頼んでいたので心配はなかった。やがてモーターが軽い音をたてて廻りはじめた。
 天気は昨日よりか幾分落ちてはいたけれど、風や雨の心配のあるものではなかった。赤いブイが、昨日と同じように波間に見えた。
「いいか竹田、僕の信号は一つが生きているという知らせ。二つが幽霊を見つけた知らせ、捕まえた時は三つ引くからね。四つの時は兇器だと思ってくれ、五つの時は最後のものだ。六つ以上になったら引揚げてくれ」
 船がモーターを止めた時に堤はいった。
「一つが無事、二つが幽霊、三つが捕まえた時、四つが兇器で五つがあれだな、承知した、安心して潜ってくれ」
 竹田もいつにない真面目さであった。用意はすっかり整った。堤は服を着て面をつけにかかった。
「もうひとつ頼んで置こう。僕が潜っている間、どんな船もこの船へ近づけないでくれたまえ、それからどんな潜水夫もだ。いいか、送気管を切断されるうれいは、充分にあるんだから」
 竹田は答える代りに強いコックリをひとつして見せた。堤は笑いながら面をつけ、やがて勇敢に水の底へと沈んで行った。
 コトンコトンとポンプが廻る。命綱の他に堤の希望で附け増した二本のろっぷがするすると輪を崩して行く。遠くを内海通いらしい二本マストの汽船が通る。午前の太陽が夢のように甲板を照らしている。
「無事だ、無事だ」
 命綱の端を握っている竹田は手ごたえのあるごとに狂喜した。
「なるほど確かな信号がある」
 時には署長も網の一端に触って見て喜びを分つのであった。
「や、二つだぞ!」
 竹田が叫んだ。その真剣さは一時ポンプにかかっている人夫らの手を止めさせた程であった。
「おい! ポンプを、おい!」
 竹田はそんな時も八方へ気を配っているらしかった。何十秒か命綱には信号がなかった。署長も署員も人夫らも、呼吸をつめて海面を凝視した。
「三つだ、三つだ、堤が幽霊をつかまえたぞ」
 竹田の声に手の空いている者が皆そのろっぷへ群りついた。
「あ、こっちのろっぷに信号がある。さあ引揚げろ」
 人夫の一人の声に、人々は又増し綱の方へなだれて行った。
「堤は無事だぞ、きっと幽霊をふん縛ったのだ、構わず引揚げろ引揚げろ」
 竹田は命綱に無事の信号があったので、確信をもってそう叫んだ。網は恐ろしいカをもって手繰りあげられた。人々のこころはその一本の網の先端に集中した。
「や、何やら大きな物が揚って来た!」
 網の最先端を握っていた人夫が澄んだ海面をのぞきこんだ。と間はなかった、何やら人身大の物が船べりへ姿を見せたと思うと、その人夫は、
「わっ!」
 と叫んで持っていた綱の手を離した。がその物体は再び沈みはしなかった。綱は人夫ひとりが持っていたのではない、人夫の後にいた二三の者の手によって、その物体は船べりへ引揚げられたままで沈まずにいた。
「何だ、何だ?」
 といって人々は船べりをのぞきこんだが、
「あッ!」
 と声をたてて皆身を引いた。流石に竹田ひとりが恐れなかった。
「なるほど、こいつは幽霊にちがいないな。堤もよくこいつが縛れたものだ、それにしても肝心な銛をこいつは持っていないが−?」
 いうところへ更に信号が伝わって来た。その数は四つであった。その竹田の表情と言葉に勇気を得て、やがて人々は問題の幽霊を船上へ引揚げたのであった。
 それは不思議な、二た目とは見られぬ程の恐ろしい人間の死体であった。権蔵、為吉の言葉の通り、半ばぬけ落ちたくろい髪を頭骨に乱し、骨の出た胸をそらして、足を踏ん張り眼窩を見開いたようにして硬直している。淀んだような海底の藻合に、どんな大胆な者が見ても、これを幽霊と信じるのは無理のないところである。
 人々は今更のように、海が持つ底知れぬ恐ろしさといったものを感じるのであった。
「これは昨日や今日沈んだ人間の死体じゃない。頭部の様子では一二年はたしかに海の中にいたものだ。がそれにしては腰から下の工合が生々しい」
 署長がそんな解釈を下している一方では、竹田の握っている命綱がまた新しく伸ばされはじめていた。堤が何処へか遠く出て行くに違いないのである。若しかして、と綱をひかえればその度に無事の信号が送られて来た。
「幽霊も捕え兇器も発見した堤が、いったい何処へ行くのであろう?」
 興味もあれば心配もあった。綱は静止しては又のぴて行った。そうしてもう、この上綱を伸ばすことが出来ないと見られた時分、コツ、コツ、コツ、と自信ありげな五ツの信号が送られて釆たではないか。
「とうとう堤はやり遂げた!」
 竹田が空に向って大呼するうち、やがて引揚げの信号が来た。
「さ、これで今日の仕事もいよいよ終りだ。皆注意して引揚げにかかってくれ」
 ポンプはコトンコトンと勇ましく鳴った。第一回の休憩をして又人々は堤を引揚げるのに骨を折った。そして第三回目のあの四分の休憩が来た。その時であった。
「署長、ちょっとここへ、面白い実験をお目にかけるから」
 引揚げとは反対の船べりで、何時の間に行っていたのか竹田が呼んだ。
「実験、何の」
 署長が不審顔に寄って行くと、竹田はその船べりから海中に下された一本のろっぷを示して、
「握って見たまえ」
 いわれるままに署長は何の気はなくそれに触れたが、同時に、
「これは?」
 と中心のないような表情をした。
「もう堤は揚って来る頃なんだよ。このろっぷは錘をつけて堤とは反対の方向へ、恰度二十尋あまり伸ばしてあるんだがどうだい盛んに信号しているじゃないか。今この底には誰もいないんだよ、恰度一昨日のあの時と同じようにね」
 竹田が意地悪くにやにやと笑いながら、そう説明しているうちに反対の船べりには歓声が揚った。
 竹田は署長を放って置いてその方へ飛んで行った。
 最初水の面には半ば錆びた銛の尖端が表われて来た。それから堤の潜水面が、最後に何やら方二三尺ばかりの箱らしいくろいものが彼の腰のあたりに眺められて揚がって来た。
「やあ、大変だったな、大変だったな」
 竹田は堤を助け揚てその面を脱《と》ってやった。
「幽霊先生日光浴をやってるんだね」堤は二コ二コと甲板の怪死体へ眼をやってから、
「序に事件の原因も捕えて来たよ。兇器はこれさ、うん、幽霊先生が持っていたんだが、手頃だから僕が護身用に持って歩いた。事件の原因はどうもこれらしい、諸君揚げてくれたまえ」
 大きな箱が甲板へ引揚げられた。
 海藻やその他の汚物が附着してはいるが、それは誰の眼にも立派なひとつの金庫に見えたのである。
「この中に事件の原因がある。署長もお在でなんだからちょっとお眼にかけよう、いや鍵もへちまもない、この通りだ」
 堤が扉の一ヶ所をどうかすると、新しい金庫のようにそれが開いた。
「おお、これは−」
 中をのぞき込んで署長が思わず叫んだ時、もう堤はその扉を静かに、だが手早く閉していた。人夫等にはその内容の何であるかを知る暇はなかった。
「お話は帰ってからにしましょう、少し疲れたようですから、僕は船室で休ませて頂きますよ」
「モーターをかけろ、おい、凱旋だ凱旋だ」皆の呆然としている中に、竹田ひとりが噪《はしゃ》ぎ切っているのであった。

「…僕は最初から権蔵が怪しいと思った」その夜、竹田を前にして堤が機嫌よく語っていた。「殺って置いてから相手のろっぷを自分が持ち、先づ自分を引揚げさせて、その途中で相手のろっぷで信号する。お互いの距離は相当あっても、綱の長さと、それからその距離の中間に、ろっぷの浮揚をふせぐ装置さえあれば出来ることだからね。滑車の理屈と同じものさ。で権蔵の犯行とすると、その原因は何だということになる。女か、だがそれにしては僕が昨日半日がかりで調べた結果も、権蔵が二郎と娘との閑係を知っている証拠がどこにもない。では金か、というと君が訊いてくれたあの話だ、明日の仕事さえすめば相当の金が手に入るという。僕はそれを聞いた時に始めて解ったと思ったよ。潜水夫が出所の知れない金を得るなんて、それは海底から取り出すことをいってるようなものだ。おそらく一昨日の晩、二郎は権蔵に一足遅れて病室へ来て、権蔵が娘にいっているその金の話を、何処かへ身を忍ばせて聞いていたのだ。同じ潜水夫である二郎には権蔵のいってる金が果して何処にあるのか直ぐに解ったのに違いない。翌日二人は海に這入った。二郎は権蔵の手にその金を渡すまいとしたのらしい。権蔵は始めてそこで二郎と娘との関係を知った。彼は金庫を獲るために予て備えていた銛をもって遂に二郎を殺ったのだ。幽霊のことは権蔵が考えた後からのトリックだろう。あの死体が何者だかは知れないけれど、恐らく沈んだままでいる船の中からでも権蔵が運び出して来たものらしい。うん、銛はたしかにあの幽霊が持っていたよ。金庫は五年前のその沈没船の物なんだ、署の記録の中にちゃんとあの金庫のことも書いてあった。ああ勿論、金庫はその沈没船の中にあったのだがね。いったい潜水夫達の間では、沈没船引揚げなどの仕事の時、目星い品があると皆これを自分の心覚えの海底に一時隠して置いて、幾年か経ってから折を見て引揚げて自分の所有にするんだってね。海底の掟だとか誰だかがいっていたが、とにかく始めての経験で勉強になった。海の底って、光線の工合や何か、想像も及ばない実に美しいところなんだね」
 恰度そこへ署から電話がかかって来て、権蔵が犯行や全部を自白したと知らして来た。それは堤の言葉を裏書して余りあるものであった。
「第一は君の診断がこの犯罪を発見した。第二は、権蔵が引揚げの信号をする時、そんな幽霊を見たのなら何故危急信号をしなかったかその疑問が僕を考えさせたことだった。第三にはあの娘の態度だ。彼女は使いに来た浜の者から二郎が殺られたと聞いたのだろう、君に鞄を渡す時、かくしてはいたがひどく取り乱していたからね。だが一番僕の興味を惹いたのは、海底の犯罪というめずらしさだったよ」
 四五日、磯の香でも嗅いで呑気にしたいといって竹田の許へやって来ていた堤は、そんな言葉を残して、翌日もう、都会の自分の興信所へと帰っていった。

初出誌「新青年」1932年6月号/底本「幻影城」1978年8月号No.45


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